手元供養(ミニ骨壷、納骨オブジェ、遺骨ペンダント)で愛する人の分骨を自宅供養 | 手元供養専門店 京都・博國屋(ひろくにや)へようこそ

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母の死

5月31日、6月1日は、多摩での「自分らしい葬送を考える企画展」。2日で210人。50代から80代くらいの多くの来場者が真剣に講師のお話や葬送情報、手元供養品を熱心にご覧になっていました。お帰りのご老人に、お役に立ちましたか?と、お声を掛けると「知らないことばっかりで・・。来てよかった」と、うれしそうにお話されていました。
6月2日には、NHKの首都圏ニュースで、この催しや手元供養が紹介されるなど大きな反響を呼びました。
今回ご協力いただいた、講師の皆さんやNPO、企業の方々、関係者の皆さんにお礼のご挨拶などいそがしい残務整理に時間が過ぎ、さてブログをと思っていた矢先。


そうでした。「母の日に思う」のブログを書いたのが5月11日。

この頃から、予感がありました。
この夏までは、もたないかなー。という。

お昼に豆腐を食べたおり、予兆もないのに挿し歯が取れ、豆腐で歯が取れるとは!と、事務所で笑ってしばらくして、松山の姪っ子からの電話で母の死を知らされました。
母親っ子だった私に、母が知らせにきてくれたのでしょう。不思議な体験です。

6月9日午前11時20分、享年83歳波乱万丈の一生でした。
風邪で入院し体力が消耗したのでしょう。
老衰です。


葬儀は家族だけでおこない、翌日、告別式はおこなわず
ロングボディのレンタカーを借り、家族で、母の人生を振り返りながら
こどもたちが運転する車3台で思い出の地を巡りました。


母が最期の3年間を過ごしたグループホームでは、看護士のスタッフたちが、
母の生まれ育った海辺の町では、連絡が入っていたので近所の人や
親戚の人が大勢来て母を見送ってくれました。


火葬の後、2年前元気だった母と家族みんなで、中島の帰りに行ったイタリア
レストランの部屋で骨壷と写真を前にワインを飲み、思い出を語り、時を過ごしました。


お坊さんを呼ばなかったおかげで、余計な気遣いや形式、しきたりにしばられ
なかった分、家族での温かな見送りができたと思います。
密葬から思い出の地巡りまで付き合ってくれた71歳の叔母もいい葬儀だったと
喜んでくれました。



来月には、親父と同じように高野山に納骨し、一部を田舎の海に散骨してあげます。
兄妹でもてるよう両親を入れる手元供養もつくろうと思っています。
まだ、親が二人ともいなくなった実感がありませんが、時にふっと元気な頃の
母の姿がおもいうかびます。


亡くなった6月9日は、両親の62回目の結婚記念日でした。
きっと父が母を迎えに来る日を選んだのでしょう。


寝たきりの母の平安な一日を祈ることはなくなりました。
きっと今頃は、親父と天国で仲良く再会を喜んでいることでしょう。

諸行無常。順送り。


自分の番になるまでしっかり「生命(いのち)」を生きようと思っています。

それにしても、煩悩の多いことか。

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プロフィール

博國屋店主

Author:博國屋店主
セゾンのデベロッパー会社で21年。独立してまちづくり事務所を13年。この間、国内やアメリカやヨーロッパのすぐれたまちづくりを学び、関係する全国のまちづくりに関わってきました。
そんな私が父の死をきっかけに両親の葬送や供養について考えざるをえなくなりました。
葬送について何も知らなかった私が、時代にあった供養を研究し、たどりついた結論。それが手元供養でした。(手元供養は私の命名です)友人清水泰博教授(東京芸大)と1年余り試行錯誤を繰り返し、日本で始めて作り上げた手元供養品が「おもいで碑シリーズ」です。今や「おもいで碑 地蔵」は、手元供養の代名詞に育ちました。

大切な人をオブジェやペンダントにして手元供養しませんか?と、新しい葬送文化を提唱し11年の歳月が流れました。

今では、色々な手元供養品が商品開発され「手元供養」という言葉も定着してきました。ありがたいことです。

博國屋を通して学んだことを’07年には、「手元供養のすすめ」を書き、お墓や供養のことで悩まれている人へと樹木葬や散骨などお墓に替わる新しい葬送情報を利用者の言葉も交えわかりやすい解説書として翔伝社新書から出版しました。

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