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友の死

今日のことを、Y君のことを忘れないために、ブログにして残しておこうと決心し書くことにした。
11月6日京都は暖かな朝だった。
おつき合いのあるNPOの設立20周年記念シンポジュームが開かれるというので新幹線で東京に向っていた。
浜松を過ぎた頃、携帯が鳴った。かつてまちづくりの会社を一緒に立ち上げたS君から、Y君が昨日亡くなったという知らせだった。
真青の空を背景に、頂に雪をかぶった富士の山稜がいつもより小さく絵画的に見えていたことを私は忘れない。

平成7年、セゾンのディベロッパー会社を退社した団塊の世代の4人の男がそれぞれ自分の事務所を作り、そして資金を出し合い連携して仕事を進めるネットワーク型まちづくり会社をつくった。表参道で開いた設立パーティには多くの人がお祝いに駆けつけてくれ妻達も接待に追われた。懐かしい思い出だ。
都市計画の学者、不動産事業に精通した専門家、アトリエ型建築事務所出身の力のある建築家、そして私は土木出身のニュータウンのプランナーと、セゾン出身でそれぞれ才の異なる個性的な4人で始めたこの会社は、クライアントにも恵まれ全国で多種多様なプロジェクトに参加した。当時、池袋のビッグカメラで通信ソフトの入った同じコンパックプレサリオ520を一緒に購入し、仕事を分担しレポートをメールで送り議論しながらプロジェクトを推進していった。今思うと、おもちゃのようなパソコン能力の中でよくやったものだと思う。
妻達を労おうと山中温泉に行ったり、一緒に酒をのんで夜分彼らの家にお邪魔したりで家族ぐるみの付き合いだった。
しかし4~5年経つと、メンバーの一人が大学の教官になったり、それぞれの事務所も独自の仕事が増えたことや路線の違いもありネットワーク会社の役割が徐々に薄れネットワーク会社はS君に引き継いでもらい大阪に事務所のあった私は、彼らと年に1・2回しか会うことがなくなった。
しかし、セゾンを退職し独立という収入の安定しない不安な時期を一緒に乗り越えてきた戦友として格別深い友情が生まれた。

その後、Y君とは私が東京や横浜に出張の折、電話して一緒に食事をし近況を語り合う穏やかな関係が続いていたが、彼には母子感染によるB型肝炎の持病があり定期的に検査入院でがん化した細胞をカテーテルでブロック治療をする苦しい1ヶ月を毎年すごしていた。

9月横浜出張の折、会おうと電話したら検査入院中とのことで「じゃあまた」と電話を切った。いつになく元気のないよわよわしい声が気になり見舞いに行こうかと一瞬あたまをよぎったが・・・。それが、最期になるとは・・。

人の死なんて あっけないものだ。

棺に収まった彼の顔は、頬骨が目立ち油気のない顔に赤く塗られた唇が いつものダンディな建築家Y君ではなかった。
涙が不思議と出なかった。
生気? 魂?の抜けた?彼はもう彼ではなかったからか?
Y君の奥さんと目を合わせたとたん涙が溢れでた。
「死」には無感情だったが、彼の死を悼む奥さんの「生」に悲しみがあふれた。
いつも傍にいた彼は、これからずーと居ないのだ。
夫婦仲がよかっただけにこれからのことを思うと胸がふさがれた。
奥さんに「今回の出張は、Y君が俺に会いに来いと呼んだのかも知れません。」「きっとそうですね。」
心の中で「H(奥)さん、あなたがY君を覚えている限り Y君は死んでいませんよ」と言って別れた。


Y君の葬儀は、花に囲まれた音楽葬でおこなわれた。会場にベートーベンの「喜びの歌」が流れていた。ドアでつながった隣の部屋には生前彼が好きだった食べ物やお酒が並べられ彼との思い出でがそこかしこで語られていた。
今年10月の結婚30周年記念に娘さんたち手作りのY家の家族歴史画像が流れていた。Y君は、この映像をどんな思いで見たのだろうか?

帰りの新幹線は、元気な頃彼の好きだったワインを飲みながら車窓から暗い景色をながめながら、この15年の月日をおもった。前日きれいな姿を見せていた富士山は闇の中だった。

2年前にひどい糖尿病に罹ってから、自分の「死」に親近感を持つようになった。人はいずれ死ぬ。私の死生観では、先に逝った両親や友とも向こうで会えるとおもっている。

Y君 そのうち行くから また一緒に酒を飲もう!
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プロフィール

博國屋店主

Author:博國屋店主
セゾンのデベロッパー会社で21年。独立してまちづくり事務所を13年。この間、国内やアメリカやヨーロッパのすぐれたまちづくりを学び、関係する全国のまちづくりに関わってきました。
そんな私が父の死をきっかけに両親の葬送や供養について考えざるをえなくなりました。
葬送について何も知らなかった私が、時代にあった供養を研究し、たどりついた結論。それが手元供養でした。(手元供養は私の命名です)友人清水泰博教授(東京芸大)と1年余り試行錯誤を繰り返し、日本で始めて作り上げた手元供養品が「おもいで碑シリーズ」です。今や「おもいで碑 地蔵」は、手元供養の代名詞に育ちました。

大切な人をオブジェやペンダントにして手元供養しませんか?と、新しい葬送文化を提唱し11年の歳月が流れました。

今では、色々な手元供養品が商品開発され「手元供養」という言葉も定着してきました。ありがたいことです。

博國屋を通して学んだことを’07年には、「手元供養のすすめ」を書き、お墓や供養のことで悩まれている人へと樹木葬や散骨などお墓に替わる新しい葬送情報を利用者の言葉も交えわかりやすい解説書として翔伝社新書から出版しました。

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